5分でわかる三光丸
創製期について(元応年間 1319年~)
三光丸の歴史は今から約700年前、鎌倉時代後期までさかのぼります。
当時、大和国(やまとのくに)では越智氏(おちうじ)が南大和一帯に勢力を広げ、大和の豪族のなかでも最有力候補のひとつとされていました。米田氏は越智氏の血族(越智家氏から分家した家柄)で、越智党の中でブレーン的存在であり、特に医薬の道に長じ、さまざまな薬を処方して一族の者に分け与えていました。
南北朝時代(建武3年:1333年~)に入ると、大和国の豪族たちは京都の北朝か吉野の南朝に分かれて戦いを繰り広げました。後醍醐天皇の南朝に味方した越智氏は、あるとき、帝に一族の秘伝薬「紫微垣丸」を献上しました。すると、その卓効に驚かれた帝は「天の神、月の神、星の神が授けた秘方である」と称えられ、この妙薬に「三光丸」という名前を与えられたのです。
室町・戦国・江戸時代
越智党はその後次第に弱体化し、戦国時代末期に滅亡しました。以後、越智党の有力家臣団の多くは故地にとどまり、米田氏も農業を営むかたわら、三光丸をはじめとする家伝薬の製法を守り伝えました。
さて、大和売薬(※1 置き薬)は江戸時代の中期以降に始まりましたが、そのきっかけを作ったのは、薬の製法や、生薬の取り扱い方法を熟知していた米田氏でした。
置き薬の商法は、越中国富山(えっちゅうのくにとやま)と大和国でほぼ時を同じくして始まりましたが、当初は藩の援助を得た越中売薬が優勢でした。しかし、幕末期には日本中で両者が競合する状況となりました。
「このままでは富山と大和の売薬業界は共倒れになる」そう危惧し、立ち上がったのは三光丸の当主、米田丈助でした。幕末期の慶応2年(1866)、丈助は大和と富山の売薬業者で話し合いの場を設けました。その結果、『仲間取締議定書連印帳(なかまとりしまりぎじょうしょれんいんちょう)』と呼ばれる紳士協定の締結に至ったのです。
※1 日本独自の薬の販売システムで、「配置販売」といいます。これは、薬の販売者が家庭を訪問して薬を預け、半年ないし一年に一度、顧客を訪問して、使用した薬の代金を集金するという方法です。「先用後利」(先に商品を用立てて後で利益を得る)と呼ばれるこの商法は、顧客からすれば「いつでも薬の使用が可能」「使わなければ料金が発生しない」「薬を買いに行く必要がない」「手元に薬があるので安心できる」などのメリットがあります。
置き薬は、医師や病院が少なく、収入も安定しない農村、漁村を中心に人気を博し、江戸時代以降、現代に至るまで幅広く根強い支持を受けています。
明治・大正・昭和
こうして幕末の動乱期を乗り切った大和の売薬業界でしたが、やがて明治新政府が樹立されると、また新たな試練が待ち受けていました。
西洋の文物を積極的に採り入れようと考えた新政府は、日本の民間薬や売薬は、西洋の薬に比べて科学的根拠に乏しく、効き目も見込まれないと決めつけ、売薬に対し過大な税金を課すなど、非常に厳しい方針で臨みました。
この危機を救ったのは、またもや米田家でした。当時の三光丸当主、米田德七郎寅義は、混乱する大和売薬業界をひとつにまとめ、次々と新機軸を打ち立てていきました。
次なる試練は第二次世界大戦の勃発でした。戦争が次第に激化すると、日本国政府は戦争遂行を目的として企業整備を行い、奈良県の売薬業者も地域別に強制的に合併させられ、統合されることになりました。このとき、三光丸の社名も一時的に消えることになったのです。その上、当時の三光丸当主、米田德七郎桂三の戦死が受難に拍車をかけたのでした。
戦後、企業整備が廃止され、三光丸も「株式会社三光丸本店」として再出発しました。当主を失った痛手は大きかったのですが、やがて米田德七郎舜亮(しゅんすけ)が当主となり、社員や取引先の配置販売会社の協力を得て会社を立て直し、さらなる成長を見たのでした。
現在、そしてこれからの三光丸
現在、当社と取引のある配置販売会社は約150社あります。当社直営の営業所も全国に14か所あり、北は北海道から南は沖縄まで、全国に三光丸の販売網を有しています。
私たちのつとめは、和漢の胃腸薬三光丸を通して人々に健康と安心をお届けするとともに、資料館活動を通して地域の教育あるいは文化の発展に寄与することと信じています。
社員に聞く!三光丸のここがスゴイ!
三光丸の歴史は古く、元応年間(1319)に創業しました。昔と比較してもその原料にほとんど変わりがないことは、先人の知恵の賜物です。家伝薬として伝えられ、今の社長で34代目となります。
大和の薬の歴史が学べる施設になっています。奈良県の地場産業である製薬(薬づくり)を勉強できることもあり、地域の学生は社会見学や自由研究で利用しています。他の博物館ではケースに入っている物もココでは触ることができます。
本社の所在地は、元々は森でした。そこを切り開き工場や社屋を建設していますが、できる限り木を残し、木々が生い茂る自然豊かな「森の中の会社」になっています。併設する(一財)三光丸クスリ資料館の庭も見応えがあります。
地域のスポーツイベントや企業の集まるイベントへ積極的に参加し、社会貢献するという意識を社員全員で共有しています。またイベントに参加することで、社員のモチベーションも向上しています。
配置部(営業部)は年30時間の研修があります。ここでは薬や薬の法律を勉強します。またそれとは別に、入社2年以内の社員を対象に年3回、三光丸の基礎を学んでいます。お客様にとって、薬のプロになるために常に新しい知識を身に付けています。
薬や薬の法律を勉強するのは配置部だけではなく、中で仕事をしている社員も同じです。全社員が三光丸のことを誰に聞かれても答える事ができるように、毎月30分程度ですが勉強しています。
大和の薬の歴史が学べる施設になっています。奈良県の地場産業である製薬(薬づくり)を勉強できることもあり、地域の学生は社会見学や自由研究で利用しています。他の博物館ではケースに入っている物もココでは触ることができます。
三光丸は配置販売業(置き薬)という商法が始まった江戸時代からこの業界をリードしてきました。本社所在地は大和の置き薬発祥の地です。三光丸の当主米田家は、大和の配置販売業者を取りまとめ、ライバルである富山県の配置販売業者と紳士協定を結ぶなど、その後の大和の配置販売業の礎を築きました。
弊社は「製剤棟」以外に「原料倉庫」と「加工棟」があります。原料を粉末などの加工した形で仕入れるのではなく、自社で加工するようにしています。三光丸の原料は自然由来のものばかりです。成分を自社分析する事で、お客様に安心安全な薬を提供する事ができます。
三光丸の歴史は700年に渡ります。一方、作り方や販売ツールは近代的で、工場ではGMP(Good Manufacturing Practice)環境の下、最新の設備で生産し、配置部の販売ツールはタブレット端末を利用した販売システムが導入されています。最新の設備で製造販売することで、皆様に安心してご利用頂けることを心掛けています。
国内の配置販売を進めながら、アジアを始めとする海外への展開も進めています。東洋医学が見直されている昨今、生薬のみで製造されている三光丸は世界の人々に受け入れられることを信じています。近い将来、世界の人々の健康を守る企業になっていくでしょう。
拠点紹介
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