• 元応1~3年(1319~21)

    「紫微垣丸(しびえんがん)」と名付けられた薬(三光丸(さんこうがん)の前身)が作られていた。

  • 建武3年・延元1年(1336)

    「紫微垣丸」に対し、第96代後醍醐天皇より「三光丸」の勅号を賜り、薬の名称が変わる。

  • 天文19年(1550)~

    京都の公家、山科言継(やましなときつぐ)が、日記の中で三光丸について度々言及している。

  • 天正1~文禄1年

    米田小重郎が織田信長の嫡男である織田信忠(のぶただ)に三光丸を献上し、「軍中第一の妙薬にせよ」との言葉を授かる。

  • 延宝1年(1673)

    米田家の先祖が高野街道沿いの旅館に三光丸を置き、販売を行なう。

  • 安永1年(1772)

    米田文内が三光丸の配置販売※1を大和から伊勢、河内方面に広める。

  • 文政1~12年(1818~29)

    三光丸が近畿の行商で大和売薬の基礎を築く。

  • 慶応2年(1866)

    米田丈助が主導し、富山と大和の売薬業者が共存共栄のため、『仲間取締議定書連印帳』という紳士協定を結ぶ。

  • 明治30年(1897)

    三光団社が結成され、全国的に新規得意開拓を進める。

  • 明治32年(1899)

    三光丸同盟会発足。

  • 明治37年(1904)

    三光丸の製丸が、それまでの手作業から石油発動機に変わり、生産量が大幅に増大する。

  • 大正3年(1914)

    五角形の薬包紙を実用新案登録する。

  • 昭和22年(1947)

    法人化し、株式会社三光丸本店となる。

  • 昭和32年(1957)

    自動包装機による包装を開始し、生産性と品質が向上する。

  • 昭和40年(1965)

    米田徳七郎舜亮(現シニアアドバイザー)が、第33代当主となる。

  • 昭和60年(1985)

    配置販売員養成組織、株式会社三光丸配置研修部が発足。

  • 平成4年(1992)

    センブリのエキス化生産プラント完成し、自社で原料の完全加工が始まる。

  • 平成11年(1999)

    三光丸クスリ資料館開設 同盟会100周年記念式典開催。

  • 平成18年(2006)

    さらなる品質向上のため三光丸のパッケージを一新、新充填・包装ライン稼働開始。

  • 平成24年(2012)

    株式会社三光丸配置研修部と資本増強のため合併し、株式会社三光丸となる。

  • 平成26年(2013)

    米田豊高が、第34代当主となる。

5分でわかる三光丸

創製期について(元応年間 1319年~)

三光丸の歴史は今から約700年前、鎌倉時代後期までさかのぼります。

当時、大和国(やまとのくに)では越智氏(おちうじ)が南大和一帯に勢力を広げ、大和の豪族のなかでも最有力候補のひとつとされていました。米田氏は越智氏の血族(越智家氏から分家した家柄)で、越智党の中でブレーン的存在であり、特に医薬の道に長じ、さまざまな薬を処方して一族の者に分け与えていました。

南北朝時代(建武3年:1333年~)に入ると、大和国の豪族たちは京都の北朝か吉野の南朝に分かれて戦いを繰り広げました。後醍醐天皇の南朝に味方した越智氏は、あるとき、帝に一族の秘伝薬「紫微垣丸」を献上しました。すると、その卓効に驚かれた帝は「天の神、月の神、星の神が授けた秘方である」と称えられ、この妙薬に「三光丸」という名前を与えられたのです。

室町・戦国・江戸時代

越智党はその後次第に弱体化し、戦国時代末期に滅亡しました。以後、越智党の有力家臣団の多くは故地にとどまり、米田氏も農業を営むかたわら、三光丸をはじめとする家伝薬の製法を守り伝えました。

さて、大和売薬(※1 置き薬)は江戸時代の中期以降に始まりましたが、そのきっかけを作ったのは、薬の製法や、生薬の取り扱い方法を熟知していた米田氏でした。

置き薬の商法は、越中国富山(えっちゅうのくにとやま)と大和国でほぼ時を同じくして始まりましたが、当初は藩の援助を得た越中売薬が優勢でした。しかし、幕末期には日本中で両者が競合する状況となりました。

「このままでは富山と大和の売薬業界は共倒れになる」そう危惧し、立ち上がったのは三光丸の当主、米田丈助でした。幕末期の慶応2年(1866)、丈助は大和と富山の売薬業者で話し合いの場を設けました。その結果、『仲間取締議定書連印帳(なかまとりしまりぎじょうしょれんいんちょう)』と呼ばれる紳士協定の締結に至ったのです。

※1 日本独自の薬の販売システムで、「配置販売」といいます。これは、薬の販売者が家庭を訪問して薬を預け、半年ないし一年に一度、顧客を訪問して、使用した薬の代金を集金するという方法です。「先用後利」(先に商品を用立てて後で利益を得る)と呼ばれるこの商法は、顧客からすれば「いつでも薬の使用が可能」「使わなければ料金が発生しない」「薬を買いに行く必要がない」「手元に薬があるので安心できる」などのメリットがあります。

置き薬は、医師や病院が少なく、収入も安定しない農村、漁村を中心に人気を博し、江戸時代以降、現代に至るまで幅広く根強い支持を受けています。

明治・大正・昭和

こうして幕末の動乱期を乗り切った大和の売薬業界でしたが、やがて明治新政府が樹立されると、また新たな試練が待ち受けていました。

西洋の文物を積極的に採り入れようと考えた新政府は、日本の民間薬や売薬は、西洋の薬に比べて科学的根拠に乏しく、効き目も見込まれないと決めつけ、売薬に対し過大な税金を課すなど、非常に厳しい方針で臨みました。

この危機を救ったのは、またもや米田家でした。当時の三光丸当主、米田德七郎寅義は、混乱する大和売薬業界をひとつにまとめ、次々と新機軸を打ち立てていきました。

次なる試練は第二次世界大戦の勃発でした。戦争が次第に激化すると、日本国政府は戦争遂行を目的として企業整備を行い、奈良県の売薬業者も地域別に強制的に合併させられ、統合されることになりました。このとき、三光丸の社名も一時的に消えることになったのです。その上、当時の三光丸当主、米田德七郎桂三の戦死が受難に拍車をかけたのでした。

戦後、企業整備が廃止され、三光丸も「株式会社三光丸本店」として再出発しました。当主を失った痛手は大きかったのですが、やがて米田德七郎舜亮(しゅんすけ)が当主となり、社員や取引先の配置販売会社の協力を得て会社を立て直し、さらなる成長を見たのでした。

現在、そしてこれからの三光丸

現在、当社と取引のある配置販売会社は約150社あります。当社直営の営業所も全国に13か所あり、北は北海道から南は沖縄まで、全国に三光丸の販売網を有しています。

私たちのつとめは、和漢の胃腸薬三光丸を通して人々に健康と安心をお届けするとともに、資料館活動を通して地域の教育あるいは文化の発展に寄与することと信じています。

社員に聞く!三光丸のここがスゴイ!

拠点紹介

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株式会社三光丸